File.02 Amazing JIROさん
- 特殊メイクアーティスト -

これからの子供たちに必要とされる「生きる力」を伸ばすためには、子供の「自己肯定感」を高めることが重要とされています。では自己肯定感を高めるためにはどうすればいいのか?本インタビューではJIROさんの過去を読み解きながら、そのヒントをお届けします。

インタビュー動画

一部抜粋しています。是非お子様とご覧ください。

僕の絵を布団にプリントしてくた

——子供の頃の夢を教えてください。

Amazing JIRO(以下、JIRO氏):小学校の卒業文集で書いた夢が3つあったんですよ。刑事、獣医、あとは画家。一個ずつ言うと、刑事はドラマの西部警察が大好きだったっていうのと、獣医は本当に動物が好きで、毎日動物と戯れたかったっていうのが理由です。画家は幼稚園の時に画家の先生に絵を習いに行っていて、それが僕の中では得意だっていう自負があったんです。

——その中で画家という道に強く興味を持ったのはなぜですか?

JIRO氏:実は僕の親戚の一人がイラストレーターで、エアブラシですごいリアルな絵を書く方だったんですよ。小さい時にそこにお邪魔した時に、かっこいいなって思ったっていうのはありました。

一個記憶に残っている小さい頃の面白いエピソードがあります。0歳から4歳までアメリカのLAの方に住んでいたんですね。その時に僕がいつも見ている番組が実写版のバットマンとか、テレビドラマでやっていた超人ハルクとか、スパイダーマンとかだったんですけど、僕が絵をしょっちゅう書くもんだから、それを母親が見て、布団に僕の絵をプリントしてくれたんですよ。それが結構記憶に残っていて。
親としても絵が好きなんだっていうのを認めていて、多分せっかくだから布団にしようと残してくれたんだと思うんですけど。

幼稚園に通ってからも、「先生がやってる絵画教室があるから行ってみない?」と通わせてくれました。多分それは母親もそこの才能を見抜いてくれたのか、僕がすごい興味があるということが伝わっていたのかわからないですけど。

小学6年か中学1年生くらいの時、母親と外出からの帰り道に、何気なく将来について「美大とかもいいんじゃない、多摩美(多摩美術大学)とかね」みたいなことを母に言われた記憶があって、「タマビ」っていうワードだけ頭に残っていたんですよ。「タマビっていうところに入れば、その道では良いんだ。親はタマビに入って欲しいんだ」みたいな、なんとなくその感覚は残っていて。

高校では「将来はなんとなく進学するのかな」くらいフワッとしか考えてなかったんですけど、高校の2年生の時に、進路適性検査っていうのを高校で受けたんですね。で、僕は希望としては英文学とか、なんとなく堅めのジャンルの仕事を希望したと思うんですが、最終的に返ってきた結果は「美術」「体育」「音楽」っていう(笑)。これが確か1、2、3位だったと思います。

で、僕はやっぱり自分で表現していくことを仕事にしたほうがいいのかと思って、そこから当時入っていたサッカー部を辞めて、その春休みに美大進学のための予備校の春季講習に通いました。そこで「同じように美大を目指すという人達と比べて、自分が劣るようであれば諦めよう」位の感覚で行ったんですが、そこで書かされた絵とか課題がやっぱり面白かったんですよね。で、「こっちの道に進もう!」と思って美術の道に決めました。

——有名進学校から美大への進路に、ご両親はどういう反応でしたか?


JIRO氏:そうですね、結構自分がやりたい事はなんでもやらせてくれる親でした。あとは自分で言うのもなんですが僕、結構何でもできるんですよ(笑)。器用貧乏というか。子供の頃はクラスでもトップ3を取れるものがいくつかあって、勉強もそうでしたし、小学校は千葉県だったんですが、千葉県は相撲が盛んで、僕はヒョロかったんですけど学年で3番目に強かったですし、スポーツもサッカー部でレギュラーやってて、リレーは市の大会に学年から選ばれたり。美術も毎回絵を書くとコンクールで表彰されるみたいな、意外とまんべんなくできたので、そういう意味では正直何か自分の中で一つに決めるというよりは、「色々選択肢はあるな、その中で自分がやりたいことをやろう」みたいな感覚は、生意気ですけどありました。だから親は「好きなことをやれ」っていう感じでしたね。全然反対はなかったです。

褒められたいから頑張る、というのがベースにあった

——ご両親はどのような方でしたか?

JIRO氏:父親は商社マンなんですが頻繁に色々な国に行ってました。なので、父は仕事でとても忙しくて、僕の教育に直接携わったという感覚はあまりなく、教育っていう意味でいうと母親がメインだったと思います。母親は内向的なタイプではないですね。外交的なタイプです。もともと神戸の薬科大学を出ているので、薬剤師の免許を持っているんですけど、父親と一緒に海外を転々としている時に、ダンスを習い始めてすぐに上手くなって、今はダンスのインストラクターになるみたいな。僕が日本に帰ってきたらもうずっとダンスで家にいなかったですね。だから僕鍵っ子だったんです(笑)。父親は海外、母親はダンスで不在がちというのもあって、いい意味で一緒にいる時間がなかったからか、ずっと反抗期もなく今でも良い関係性ですよ。

僕が中学1年生の時に、父親が仕事でサウジアラビアに駐在になったんです。で、僕は妹がいるんですが、妹が小学校4、5年生だったかな。母親と妹と父のいるサウジアラビアに行くかどうかを話していたんです。僕は「二人で行きなよ」って言ったら、母親は僕抜きで行くことを選択したわけです、妹を連れて。だから僕中学時代、中1の3学期から中3の3学期まで、家族と一緒にいないんですよ。なんで行かなかったのかと言うと、当時のサウジアラビアの外国人居住地みたいなところは日本人が住んでいるんだけど、娯楽施設もあまりなく、ちょっと寂しそうなイメージだったんで。

それと現地には日本人中学校がなくて、僕は高校受験もあるし、ちゃんと勉強しなきゃっていうのもあったので、「僕は日本に残ります」と自分で決めました。だから中学時代はおじいちゃんの家で生活していました。でも中学校の先生は大反対したみたいですね。母親から後から聞いたんですけど。「ありえない」と。中1の一番多感な時期に、両親がいなくなるってどういうことだってなったらしいんです(笑)。でも、僕は、「なんでこんな時に親がいなくなるんだ」とか「なんで一緒にいられないんだ」みたいなのは全くありませんでした。しかも中1から中2に上がる春休みに、カイロで家族で待ち合わせしてエジプト旅行したんですよ。僕は中1で日本から一人で行ったんですよ。何時間も飛行機を乗り継いでカイロまで行くっていう。もう客室乗務員さんがめちゃくちゃ驚いていて、「僕1人できたの!?」みたいな(笑)。 

反抗期がゼロかというと、思春期なのでゼロと言う訳でもなくて、僕の反抗期はおばあちゃんに向きました。でも、おじいちゃんが刑事なのですごく怖いんですよ(笑)。だからすごい反抗期みたいなのはなかったですね。やっぱりおじいちゃん・おばあちゃんに迷惑をかけられないっていう僕の気持ちもあったし。

——なかなか貴重な経験ですね。
 

JIRO氏:ここちょっとまだ話していいですか?転校初日に自己紹介をするじゃないですか?その時に、「家族はみんなサウジアラビアに行っちゃって寂しいけど、ここでみんなと仲間になれるから楽しみです」って自己紹介をしたんですよ。そしたら、やっぱりその標準語が大阪に来たら最初ちょっといじめみたいな空気になって。僕、翌日からあだ名がサウジですから。僕は今でも大阪に友達に会うとサウジって呼ばれます(笑)。

だけど、おじいちゃん・おばあちゃんには迷惑をかけられない。なので
自分の中で「自分でなんとかしていかなきゃいけない」というふうに色々自分で解決していけたっていうのも、今に通じているなとか思っていて。自分でおじいちゃん・おばあちゃんに迷惑をかけず、もちろん親にも電話すれば話はできるけれども、そういう事は言いたくなかったんで、「まぁ自分で何とか解決しよう」と色々と乗り越えていったっていう記憶があります。

余談ですが、転校して最初に座った席の前に座っていたのが今大阪府知事の吉村君です(笑)。あの頃は「よっしんよっしん!」って呼んでたんですけど(笑)。前から政治の世界に行ったっていうのは聞いていたけど、まさか府知事までなって、しかも今のこのコロナ禍ですごく色々な発言をして影響力のある人になっていたので、すごいなと思います。当時音楽発表会の時にはクラス代表で僕と吉村君が木琴に選ばれて、2人並んで毎日のように音楽の時間、木琴を合わせてやっていたんで、それが結構いい記憶ですね(笑)。


——早いときからご両親はJIROさんの考えを尊重してくれたんですね。

JIRO氏:確かにそうですね。そういう意味では決して親が勝手に決めたことではなくて、毎回「自分がどうしたいの?」「何したいの?」とか、父親がサウジアラビア行った時も「どう思う?」って聞いてくれました。基本的には親は僕の意見を聞きながら、ですね。それをまぁ叶えてくれたし、僕自身も逆に親の叶えてくれたことに対して期待に応えなきゃいけない、という思いが常にありました。

でも決して変に「僕は僕」みたいな自立した感覚ではないです。親には常に気持ち的には甘えもあって、褒められたいから頑張るみたいなことがベースにありました。だけど学校に行くと、そこには親の知らないコミュニティがあって、自分という存在をちゃんと形成しようと思っていました。
決して自立を早い頃からして、親との距離があるとかではなく、逆に褒められたいから自分は外でしっかり考えてやらなきゃいけない、と言うのが形成されていったのかなと思います。

周りの技術を吸収することで、自分の戦い方を見つけた

——東京藝術大学卒業後、代々木アニメーション学院に進まれたのはなぜですか?

JIRO氏:一浪して多摩美術大学に入って、そこではガラス工芸をやっていたんですよ。でも受験し直して東京藝術大学に入って、今度は金属工芸をやったんですよ。で、ガラス、金属工芸っていう、素材に縛られた状況でものを作るということに、ちょっと僕の中で疑問を感じたというか、何でも作れる人になりたいのに、その素材による向き・不向きもあるし、作れるもの・作れないものも出てくる。

大学3、4年位から、「何でも作れるようになるにはどうすればいいか」ということで悩んでました。そんな時にたまたまテレビで特殊メイクの特集があったんです。それは(映画の)「リング」「らせん」の特集だったんですけど、真田広之さんが内臓を抜かれているのにむくむく起き上がってくるシーンがあって、それを見て、「あ、こんなリアルな人間を作れる技術を学べば何でも作れる人間になれる!」と思ったのがきっかけで、そこからもうとにかく特殊メイクを調べました。最初はハリウッドの学校とか色々調べたんですが、日本の代々木アニメーション学院という特殊メイクの学校があるということを知り、そっちに行くことに決めました。

 

——周りの人を見てプレッシャーを感じることはありましたか?

JIRO氏:いや、ありましたよ。やっぱりアートの世界って表現力と技術力ってあると思うんですけど。僕はね、技術に関して結構自信があったんですよね。細かい作業も昔から得意だったし。ただ表現の部分って、自分の全然知らないというか、違う価値観の表現が出てきたりすると、すごく魅力的に思えて。「あ、こんな表現したいのに自分ができてない」みたいなのはありました。

ただ、僕は器用貧乏タイプだったので、色々なことにまんべんなく興味を示して、何でもトライしたいタイプだったんで、人の「アレがかっこいい」「こういう表現がうらやましい」とかって思ったら、感覚で吸収していくみたいなところがありました。悪く言えば自分の表現っていうのは確立はできないんですけど、ただ、どんな表現にも対応できる力は身に付いていった気がします。


うらやましいとか、負けた勝ったとかっていうことではなく、もう僕は僕として、その幅を広げていくっていうか、「何でもできるっていうことが自分の中の自信」にすり変わっていったというか。だから、あんまり悔しいみたいな思いをせずに来れたのかもしれないです。


——ライバルに勝つ!ではなく、ライバルの技術を取り入れて自分の幅を広げ、結果それが自信になったと言うことですね。
 

JIRO氏:そうですね。でも常に「なんかずるい」「うらやましい」みたいなのはありますよ(笑)。その人にその表現において越えられないものがあったとしても、自分の中に取り込んでいきながら、逆に僕は他のものを組み合わせて表現の幅を広げ続けてきました。

だから戦い方としては、「色々な武器を出せる!」みたいな。
刀1本で勝負したら「相手の方が長いし、よく切れる」かも知れないけど、僕の場合は、「だったらもう銃出すぜ!」とか、なんかそういう戦い方だった気がします。

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